マイナス金利解除、YCC撤廃、ETF買入れ廃止、これで黒田さんがやってきた事は全部撤廃・廃止となる。
マイナス金利解除しても住宅ローンも上がらないし、預金金利も上がらない。YCC撤廃しても10年国債は今も0.7%程度で落ち着いているし、かつ急激な変化をさせないために国債買入は続けるそうなので長期金利も急騰しそうにはない。
日本株も新NISAで新たな買い手が登場して(日銀の代わりになるために創設したのか?)、かつ外人買いの神風もあって下がる心配はなさそう。
なんか黒田路線からの歴史的な方向転換が上手く行きそうな感じですね。でも本当にうまくいくのかな?こんなに簡単に事が運ぶの?この漏らし記事が出てから円はスーッと円安に行ったんですよね。そこで少しドルを利食って身軽にしときました。
その後(?)マイナス金利解除だけではむしろ円安加速になりそうだから短期金利を0.1%にしてイッキにゼロ金利政策をも解除するって話も漏れてきた。
その場合、今の日銀の3層構造のどこまでに影響があるのか?全体を0.1%上げると日銀は5000億の利払いになるとか。今も0.1%ついている基礎残高分はそのままとしたら半分の2500億の利払い増になるのか?
国債を今後も買い続けて、利払い費も増えて、債券価格も少しは下がるのかな、そうした時に大丈夫なのかな?
とりあえず週明けの相場で、ドル円が利上げ(?)に敬意を払って急激な円高となれば買いますし、逆に円安方向に抜けて行ってもドルを買います。
株は四季報が発売になるので久しぶりに買ってみようかと思っています。伝説の投資家:清原氏オススメの「ネットキャッシュ比率」が高い、まだ株価が上がっていない低位小型株を探してみようかと思っています。
日銀がそんなにお漏らしするならオムツメーカーの株でも買うかw
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入社初年度の年末シーズン(ボーナスシーズン)も資金積上出来ず、支店では肩身の狭い日々で明けた1986年(昭和61年)ですがほとんどこの1〜2ヶ月は記憶がありません。まぁ大した事象もなく日々の新人証券マン人生の旅立ちを待つ日々ですが営業成績の良い2人以外は卒業後の転勤先について悩む日々です。
本社本部の各人員採用は若干名だし、全国ほとんどの新人君達は営業マンに横滑りっていう噂、営業成績がビリ同率のポンコツおじさんは支店長には「株式の勉強がしたい」と猛アピールです。まぁ会社なんで勉強だけは難しいので当時頭のいい奴は?W証券経済研究所、?語学優秀者は国際部、?学歴次第で各法人部、?数理系なら債券部へという次第。
そんな厳しい現実をつきつけられて唯一本社本部への滑り込みは総務・経理畑の部門ですが、簿記の資格でも無いやつは見込みなし。唯一証券代行部という実務のセクション(株券など有価証券のデリバリ)があるらしいんですが、どうも新人でこの部署に配属される場合は1年生の新人でも顧客事故絡みの噂がある奴しか取らないなんて話を同室の今井さんから聞かされてました。
まぁその頃のおじさんは転職なんて考えも無いし、なるようにしかならないなという諦めの境地でした。
で、1986年3月23日土曜日、この日に関東は数十年ぶりの大雪で東京も10センチの積雪、神奈川の自宅に地方勤務の可能性を親に告げ、千葉の独身寮には深夜に帰宅し引っ越しの準備をして25日の月曜日に支店長からの転勤先の指示を待ちました。
朝礼後、支店長室に新人投資家全員が集まり、本社からの辞令交付式です。結果は中山君は千葉支店営業課、松井君は名古屋支店営業部、吉田君は横浜支店法人部との発表。
注目は成績不良のおじさんと西やんです。西岡くん、本店債券部!だって。なんだ西やんうまくやったな、まぁ証券マン二世だしこの業界のことはよく知っているから、一般営業は初めから遠慮していて、その辺は支店長にうまく話していたのかねうらやましいやら複雑な気持ちです。
で、最後にポンコツおやじ君、君は東京株式部市場課だとの支店長直々のご指名です。周りのみんなは市場課?なんだそれって感じだけど、支店長いわくもっと株式のことを学ぶようにとこご選択。他の仲間も良くわかっていないようでした。
でもおじさんは知ってました、市場課とは”the 場立ち”であるとそこは体力勝負の世界、どちらかといえば頭脳より肉体酷使の世界と。。。本当はそれほど詳しくはないけど、営業マンじゃないてことに一安心したのが正直な気持ちでしたね。
それからは地元の数好かない顧客に引き継ぎの挨拶や転勤のご挨拶、といっても大した数はないから、最大手顧客以外はみんな店頭貯蓄課のマス扱いか次年度投資家への置土産となりました。
で、その週末にはみんな地方の任地に赴く次第ですが松井くん以外はみんな東京&横浜なんでギリギリまで支店にいたような。おじさんは週末にとっとと千葉支店を後にするのでした。荷物は既に横浜・たまプラーザの独身寮に送っているので粗手ブラで千葉駅から横浜へ!
いろいろ思い出の千葉でしたが、最後はJR総武快速線のグリーン車で川崎駅までリクライニング、川崎から南武線で東急溝の口駅へそこからたまプラーザ駅までがあっという間でした。
午前中に千葉を出たから午後の早い時間にたまプラーザの独身寮に着いたら、本社の総務課長がお出迎えです。なんでも1番早く着いたから、君は201号室で寮長だと否応なく決めたみたいで断れない状況、まぁ仕事が仕事だからストレスも無しもって付けだったのかもしれませんよね。
翌週から早速東京本社へそここからポンコツおじさんの場立ちの日々が始まるのでした。
つづく
あと8月は日航ジャンボ機墜落事故があって、まさにこの日は千葉支店証券投資家時代に記憶が残ってます。お盆前でダラダラ支店で残業兼書類整理をして午後8時台に寮に帰ってくると、同期の西やんと貯蓄課の先輩が丁度食堂でナイターを見て夕食を食べていた。
その時丁度臨時ニュースで、日航ジャンボ機墜落事故の第一報が流れていた。たしか甲子園の阪神巨人戦だったはずで、阪神ファンの西やんと先輩はナイター中止に怒っていたな。その年に阪神タイガースは絶好調で最終的にセ・リーグ制覇、日本シリーズでも西武ライオンズに勝って日本一になったなんて話。
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?ベッシおばさんとの攻防
千葉支店新人投資家の新規開拓先だった千葉市新町(現在中央区)にあった和風一戸建てで昭和の凝った作りの家に5月のGW以降毎日、玄関先へ訪問し不在時はポスティング&名刺の投函、募集ものパンフを凝りもせず入れつづくのでした。毎日毎日習慣化した
6月のある日、そのお宅の奥様から突然声がして、「ベッシの安いやつはないの?」「ベッシの資料もってこい」なんてゾンザイな物言い!当然、新人オジサンには「ベッシ」の意味が分からずといって奥様の剣幕から余り口答えや問い直しはマズイと直感的に感じて、帰って勉強してきますと正直に退散したもんです。
いまじゃ当然の話だけど、所謂「ベッシ」は九州にある金鉱山「別子鉱山」のことで、業界用語で「住友金属鉱山」をさしてます。当時、新しい金鉱山(鉱区)が発見されて、仕手株化となり伝説の、相場師是川銀蔵氏の仕手戦の真っ最中だったという話でした。
どうもその奥様も株はベテラン中のベテランで投資歴数十年といった感じでした。まぁその家の玄関を丁寧に見ると日経ばかりか株の業界紙(証券新報)なんてのを初めて見たもんです。結局、口座開設にいたらず大手証券会社と取引していた(山一?)けど地場の噂なんてのにも興味津々だったのかねぇ!
?ロス疑惑の噂のお店で
1980年代の国際的保険金詐欺疑惑の主人公「三浦和義」氏が経営していたブテックショップ「フルハムロート」がオジサンの新規開拓エリアにあったんです。国道14号線(京葉道路)に続く交差点にあったお洒落なテナントビルにそのフルハムロード店はありました。まだ当時は今のようなコンプライアンスが緩く、TV局の芸能キャスターなんかが、周辺に屯してした。
いつもサボっていた喫茶店の常連客(金融マン)曰く「あのフルハムロードの三浦和美さんは株の売買をしているようだ」保険金の自主運用もしているんじゃないの(笑い)とか。いまじゃ不適切にもほどがある言い分だけど、当時は噂や洒落話の類で片付けられ
るよねー
まぁ大した見込み客も無いボンクラおじさんつぶやき
でした(^o^)
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そろそろネタ切れなんでボンクラおじさんの新人話も第一章 新人営業マン(証券投資家)はツラいよはおしまいにするかな。どうせ誰も見ていないからそろそろ正直つかれたわ。
まぁ第二章 ボンクラおじさん場立ちになる も現在構想中ですってことで!
今年の株式市場のトピックは当にこれなのか?まぁオジサンとしては当時の経済状況や企業価値違い、またその後のバブル景気の状況とは大いに違い、現役の証券マン(業界)達のような気分には今更ならないのが本年です。
1番騒いでいるのはマスコミそれもTV局ってのが当時と同じで既にオールドメディア化した新聞(日経など)は形だけの一面見出しなのかもしれませんよねぇ、この30数年間で日本の投資家リテラシーも変化してバブル景気の頃とは可也成長したなんて思いです。
さて忘備録”ポンコツおじさん”の新人話ですが新規開拓もままならない6月末から7月の夏のボーナス期、年末冬のボーナス期の貯蓄商品に対する積み上げもさっぱりで成績は最下位同率組、まぁ前述の2人は順調に顧客からの信頼を得て新規資金の積み上げが続き、支店長からも東京営業本部長からの覚えもめでたく、一方では肩身の狭い状況が続きました。
その当時の千葉支店は順調に営業資産も積み上がり、株の注文もそこそこ出来たようである程度手数料の回転率もいい感じでったようです。営業体と言えば毎日午前午後でその日の売買時価総額、手数料金額などの数字とニラメッコで90%とか87%とか100%に未達だと、営業担当者(支店長経験者)から支店ボイスで営業課長が怒鳴られて、そのまた課員が怒鳴られるという無限地獄のようなシーンが夕方から始まります。
最初は営業会議と称して各自の本日の営業成果を発表するんですけど、最初から黒板に一人一人の数字(万円単位)が書いてあり、そこに数字がシビアに記入される訳。
いくらかでも手数料があると大引け後は募集モノ(投信)なんかのセールスと称して外へ出れるけど、そうでない営業マンは先輩だろうと後輩だろうと、電話セールスに必死です。夕方や夜になっても顧客相手に営業電話をするんから見ているこちらも精神的に参るわ。
我々新人も形ばかりの営業電話(新規開拓)をして午後7時位には「お先に失礼します」なんて行って店をでるんだけど、月末の投信締め切り日はそんな事も言ってられないなんだか不条理な世界が続くのでした。
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まず原資はコインチェックのアカウントに残っていたBTC。これがいつの間にか数倍になっていたので、一部を売って円のままGMOコインに送金。あと一部はXRPを買ってBYBITに送金。いずれもアルト・コインを買いました。
BYBITに送金したXRPは一部をUSDTに変えて、それでアルトコインをいくつか買いましたが、どれもそれほどパッとしませんでた。利食ったのもあったけど少額なので、結局XRPの値動きに左右される状態です。XRPも少し利食っているけど、もういま残っている仮想通貨はこれくらいなので、あとは放置しておくつもり。
そんな事をやっていたらGMOコインで買ったアルトコインの事をすっかり忘れていました。見てみると2-3倍になっているものもあったので全て売却。でも数倍になったものへの投資額が少なかったのでトータルでは1.4倍になったくらい。
1カ月程度でこれくらいになれば十分な気もしますが、仮想通貨はやっぱりこんな儲けではあっという間になくなってしまう気がしています。
コインチェックに残っていたBTCも円で時価1000万円を超えたところで全部売却。
これで仮想通貨の1回戦は終わりです。%で書いてごまかしているけど、実際には儲かっても損しても少額過ぎて話にならないのですがw
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でも1987年に出たW証券従業員組合◯◯周年記念のアルバムによればオジサンが失念した仲間の名前は「松井君」でしたそういえば相性マッチャンでよくあるアダ名なのに記憶が蘇らない、年は取りたくないよねぇ(笑い)
この松ちゃん京産大出身で関西男にしてはボーとしていてどここか抜けているのかって当初は心配しました、でも案外ええカッコしいで新人のボーナスが出ると当時時価100万円もするホンダのインテグラの中古車をだれよりも早くゲットしてました。独身寮じゃ当然駐車場も無いし別に月額で借りていたんだろうから、相当の出費ですよね。
あとファッションもシュッとした奴のマネからか吉田君と同じシープスキンのジャンパーを千葉のパルコで買って透かしていたな。あれはあれで一つの強みで、最後はとうとう千葉支店の総務イチの美人を奥さんにして、名古屋支店の営業に栄転していきました。その後の噂は聞かないけど、彼ほどのガッツと不動心があれば人生は成功が約束されてんじゃないのかなぁ。
ポンコツおじさんはその松ちゃんの相棒の吉田くんと案外馬が合いよく朝はモーニング、昼はアフタニューティをするお茶しばき仲間となりました。吉田君は神戸出身で両親とも日本航空に努めていてリアルなボンボンってのは後に知ったけど、大学は京都の龍谷大学でテニスばかりしていたようだった。本当ならJALの関連企業にでも就職できたんだろうけど、不思議と証券会社へ!
見た目はテニスボーイだけど話すとコテコテの関西弁でも知り合いによれば神戸とその他の大阪弁とでは同じ関西弁でもニュアンスが違いそうな、やはり上品さがある?ということだけど、そうなのかなぁなんて当時は思いました。吉田くんは千葉支店卒業後は横浜支店の法人課へなんでも中小企業診断士を取って地元へ帰るなんて話を後々聞いたもんです。
ただその後、横浜支店で長く法人営業をしていたけど、95年の阪神淡路大震災に実家が被災して其の御見舞にオジサンと二人クルマで行ったのを忘れられないな。神戸・王子公園のマンションが実家だったけど、建物自体斜めに傾いてエレベーターが使えなくなり、その後は解体されたなんて話を結婚式後に聞いた。
吉田君の結婚式に芦屋の教会へ赴いたのが会ったのが最後でその後は明石支店に移動後にW証券を退職、数年後体調を崩して亡くなったのは今更ながら残念でなりません。色々あったなぁ
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株券は額面50円券ばかりで昭和の30年代から政策で嫌々持たされた物産や三菱商事、食品株やら製粉・精油繊維関係まで色々あったそうな。其の会社のオーナーは大手から中小まで様々な証券会社の営業マンが訪問するけどどいつも口ばかりでいい加減で知ったかぶりのヤツで仕方がなかったそうです。そこへ我々の仲間が愚直に新規での外回りで知らないことは帰って答えるなんて話をしていると、どこが良いのか問屋の社長に気に入られましたとさ。
まぁ結論的にはそのラッキーボーイと東海大の中山君はバリバリの営業マン候補生となり、サボリと能書きだけのオジサンと西岡君は翌年の移動で東京本社勤務へ。シュッとした龍谷大学出の吉田くんは横浜支店の法人課へ転勤となるのはまだまだ先の話です。
まぁ人間万事塞翁が馬というか、営業や新規開拓が苦手のオジサンは無事営業課ではなく本社勤務をゲットするのでした!
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で、1番バッターは5名の仲間で1番証券マンに似合わない?と本人が恐縮していた中山君でした、ご存知東海大野球部出身で地道に新規開拓営業をこなし、朝から喫茶店でのサボリもなく(ホンマかいな?)市内料亭の社長から注文を取ってきたそうです。素直で株のことなどわからなとうのがお客さんい愛されたのかな?当然、料亭の社長は大手証券でも取引していてかなり個人、会社名義でバタバタ資金を動かしていたみたいです。
後日、その中山君が千葉支店に残留し営業課へ横滑り移動した後聞いた話では、「証券マンはやたら自説を披露したがるけど、君はそれがない、だから使いやすかった」だそうです。我々もつい自分で色々能書きを話したがったけど、お客さんとしては注文を正しく執行してくれて、間違いなく受け渡しが出来る営業マンが好きだったというお話でした。
いつの時代も愛される営業マンが成績優秀者なんですよね最もその後訪れるバブル相場でその社長は大損状態だったってお話でした。
ちなみポンコツおじさんは6月に訪問先の公益法人窓口の受付女性で中国ファンドの買ってくれました。株式注文はまだまだ先のお話です。
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「接続がプライベートではありません。攻撃者がdaily082.jugem.cc/から個人情報(パスワード、メッセージ、クレジットカードなど) を盗み取ろうとしている可能性があります。」
私のこのPCは大丈夫なのですが、私もいつもと違うPCから試したら同じメッセージが出てアクセスできませんでした。ただYahoo検索でdaily082のTOPでない適当な記事をクリックしたら、それは表示されて、そこからdaily082のTOPに行ったら、問題なく表示されました。
一度表示されたら後は大丈夫でした。ただnzk082のPCは以前からずーっと使っていて、まだダメなようです。
おーい、直ったか?(とここに書いても見れないかw)
もう1つ気が付いた事があるのですが、試しに携帯からアクセスしようとしたら、いつまでたっても表示されませんでした。エラーも出ず。daily082って携帯では見られないんですね?
誰がdaily082を攻撃してるの?
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そんな話を担当課長から聞かされて、オジサン達新人君は山桜名刺に自分の名前が刷り込まれた名刺100枚(50を2箱)を銘々もらい先週末に千葉の商店会が買った営業バッグに口座開設セット、中国ファンドのパンフ、その他投資のリーフ類などを入れてスタートです。
朝9時の寄り付きを確認してなんとなく外出、その前週に課長と話して自分たちのテリトリー(営業エリア)を決め一軒一軒ローラー作戦で飛び込み営業開始です。
オジサンは支店西側の商店街の一部と住宅街でした、仲間のみんなは問屋街や県庁、市役所などのある中心部、また別のヤツは普通の住宅街等など、それぞれ地域特性はあるけど千葉市の中心地だからそれこそ日本中の証券会社がこすりに擦って営業マンが毎年飛び込み営業をかけているエリアなんです。
だから住宅街では居留守、商店では顔も合わせてくれず気持ちの弱い人なら人間不信のに陥るには余り時間も必要なかったよね。それでも半月は朝から晩まで真面目に名刺配りとパンフレットを投函しても反応はゼロ!
そりゃ毎日毎日色々な証券会社や銀行、保険屋なんかが回ってきるので都市部の擦れたお客さんなんかはめったに出来ないわけです。まぁ同期の連中も一人一人とサボリを初めてて、とうとう7月には朝会社を出てそのまま喫茶店へGOって感じになるのはお決まりでした。
あとから聞くと営業マンの先輩諸氏も午前中顧客への連絡が一通り終わるとみんなバイクや自転車、徒歩でそれぞれなじみの喫茶店へいって情報収集をするらしいです。早く地元の喫茶店に行き着いたヤツは先輩と馴染みズル休み、バカ正直に外回りしていた奴は随分無駄足だったような。
それでもなんとなく営業周りの雰囲気がつかめると午前中はモーニングを取って時間つぶし、適当に外回りしてその後は昼食を取るんで支店に帰社、課長からの声がけも上の空で午後もズルズル机にいても仕方がないので、外出です。
そんなルーチンがいつまで続くのかなんて思っているうちにもう季節は初夏になっていました。ボンクラ新人君はいったい一鉢商売になるんでしょうかねぇ、今更ながら心配です。
つづく
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この本のタイトルって『わが闘争』に似ていませんか?意識して付けたのかな。
まだ読んでる途中ですが面白いです。
損する人はこんな人というのが59ページに書いてあって、いわく「上がってくると居てもたってもいられなくなり、でも買ってしまうと今度は怖くなって少しの儲けで売ってしまい、その後上がってくるとまた買いたくてそわそわしてしまう人」との事。それはまさしく自分の事でした(^^;)
世の中のファンドマネジャーや機関投資家すべてを敵に回したような辛口の内容は、もし自分が大して成績が上がらない言い訳が得意の運用担当者だったら、かなり読むのが厳しい本ですw
小型割安株を発掘するための方法として「ネットキャッシュ/時価総額」というのを詳しく説明してくれています。
あと思ったのは自分なりの解釈だと「暴落は10年に1回起こる。予測できないことはいくらでも起こるから、だからと言ってそれを言い訳に株を買わないのはナンセンス。暴落時に売らないでもう1回買えるだけの余力を残して今買うのが正解」と書かれていたのが自分にはヒットしました。
さて今日の日経にも載っていましたが、昨日2月末の日銀保有残が発表になり2月に出たばかりのGX債10年の4割近くを日銀が買っていたのにはやや驚き。
発行額約8000億円の内、日銀が3300億とか買っていたんです!こんな事やってる日銀が=日本が=円がいつまで持つのかはやっぱり不安。
アルゼンチンはここ2年の通貨安で株価は爆上げでしたが、なんかそういう理由って買いにくい。やっぱり昭和の真面目なオヤジなので割安だとか成長見込めるとかまっとうな理由が錯覚でもいいから欲しいんですよね。
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今話題の清原達郎氏の『わが投資術』をギリギリゲットして読んでいます。これ本当に貴重なんですw
3月1日発売だけど、少し前から本屋に並ぶかと何回かいろいろな本屋を見に行ってたのですがダメでした。Amazonで注文しようかとも考えたのですが配達予定日が「3/2〜3/4」となっていたので本屋で買った方が早そうだと思い買わなかったのが大失敗。
3/1は本屋に行けず3/2に行ったらもうどこにも置いてない!その後でAmazon見たら大変な事になっていた。配送予定が3/19〜4/21になっていて、ツイッターでも買えなかった人の叫びが一杯。大後悔。投資本でこんなに人気になった本ってなかった気がします。
しょうがないからKindle版でも買おうかと真剣に考えたり、メルカリで定価より高値で買おうか迷ったけどいったん諦め。人生諦めや待つことも大切ですよね。
翌3/3の日曜日、近くのスーパーに買い物に行ったついでに、数日前にも来たけどおいてなかった小さな本屋に行ってみました。この本屋よく見たらレイ・ダリオ氏の5000円もする本を置いてたり「おやじ株やってるな」という感じの品ぞろえでした。
それならばと棚をじっくりと端から見て行きました。全くあるとは思っていなかったけど、そしたら目に何かが入って来たんです!なんと1冊あったんです!たぶん日本中でこの本屋だけに残っていた気がしますwその時の私の喜びはすごかったですw
本を見つけるだけで、こんなに長くなっちゃったのでいったん区切ります。
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当然、新人で自分のお客が一人もいないオジサン達は、先ず外務員試験を合格後、新規開拓へ向かうのですが、そこは証券会社、担当課長は自分の家族や親戚、友達の名義で株の注文を取れ!なんて話が出来てきます。
いまじゃコンプライアンスでそんな話は出来ないだろうけど昭和じゃこれが当たり前です。まぁ証券マン本人は業法で自分の注文は出来ない(地場受けの禁止)なんて大前提を課長からおしえられたけど、不思議と売買管理部から何か了解を得ると本人口座で本人注文が出来るんですよ。
新人証券マンは先ずは自分名義の口座を開設し中国ファンド購入?その後、1ヶ月で解約出来る商品なのでその代金で株式の買い注文を執行するのでした。
まぁ実を言うとオジサンは自分の口座で早速株式の買い注文を出し翌日約定です。5月末に初めて買った銘柄は銘柄コード2503 麒麟麦酒(キリンビール)でした。約定価格は625円で1000株購入し自分名義で名義変更もしました。理由は自分お親父が勤めていた会社でそれしか知らなかったというオチ、ジャンジャン!
1年もしないうちに1200円で売却でき初めて愛車購入の足しにしましたとさ(^o^)b
個人で日経新聞の契約をして独身寮の玄関には日経新聞の束が10数紙さすがに業界紙は支店にあるので、短い電車通勤のなかでナナ目読みですけど、新人は支店のデスクで読み合わせです。しばらくすると支店長との週一問答新聞の読み合わせで口頭試問?まぁこうゆう時は知ったかは駄目で上司の能書きをそのまま拝聴するのがサラリーマンの処世術と悟りました。
あと支店では毎日朝礼があり、挨拶やその日の営業目標など証券会社の当たり前な毎日が過ぎてゆきます。まぁ我々がゆい為一驚いたのは8時丁度に支店のボイスから流れる朝の放送(前日のNY市況や今日の値動き等)これはあとからオジサンが転勤する証券情報部が担当していて短波や日経BPなんかの証券会社オリジナル放送です。
その後は営業本部からの本日の指示放送などが終わると兜町からの市況を伝えるボイス(まさに声)が聞こえて来ます。外国人動向、寄り前の気配、主要銘柄の成り行き状況「◯◯万株買い〇〇万株の売り」「テツ(鉄鋼株)100万株買い気配」とかこの情報もその後オジサンは市場部員で関わりあるだけど昭和60年当時は日経225銘柄は立会場で売買してましたので株式市場といえばこの銘柄の売買を示すんですよね。
オジサン質新人は寄り前の場味(雰囲気)を30分程度見た後は3階で外務員試験の勉強会へ、まぁ1週間も経つとサボリというか調子いい状況でなんだかヒマになりました。課長も最初は同席していたけど、自分の馴染み顧客への連絡とかで監督もいい加減な感じでした。
ここまで書いて遊び半分じゃないのって感じだけど、だんだんと証券マンの日常を経験しているオジサン達でした。株式注文はまだまだ先の話です。
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